[レポート] 巴波川の水源を訪ねて-昔がたり 現地研修ツアー報告

巴波川の水源を訪ねて ― 昔がたり  現地研修ツアー報告

ネットワークとちぎ 青木浩一郎

 6月15日(日)、川原田に昔からお住まいで、最近まで市議として36年市政に活躍された森戸常吉氏に「巴波の水源-昔がたり」と題して、9時から約3時間、水源を巡りながらお話を伺いました。
 受講生3名とさびしい参加人数にもかかわらず、講師は、気さくなお人柄で熱心に次々と川原田今昔のエピソードを語っていただき、楽しいツアーでした。
 「こりゃ、自分たちの知識でとどめておくのはもったいない。」
 この思いが強く、聴き語りという形で以下のとおり報告いたします。
 なお、各水源-御手洗沼、吉根沼、天神淵、大淵の場所については、前回2月19日(日)のレポート「巴波川の水源を訪ねて-とちぎ自由大学実地探検ツアー」(ホームページ)を参考にしてください。

1 御手洗沼~吉根沼付近

  現在、市民の憩いの場になっている川原田運動公園内の親水公園に名残りをとどめる巴波川水源の一つ、御手洗沼は、ゆうに長さ約100mはある広さで、水深は、夏場は深いところで3mくらいの沼だった。水浴びしていても10分も入っていられない冷たさ・・沼底にはマコモという葉の長い水草が群生しており、子どもたちが素潜りすると足にからんだ。地元のがき大将は、それを刈り取って遊び場も作っていた。冬場の2月頃は、渇水期で水深も腰くらいに浅くなる。入札で落札した沼の水をポンプで吸い上げると、ドラム缶に10杯くらいのハヤ、フナ、どじょう、ナマズがおもしろいように採れた。吉根沼は、語源が植物の「よし」であるように葦が密生していた。水深は、御手洗沼と同じくらい深かった。 出口付近は用水掘になっていて、西(現在のジャスコ北方面)にむかう堀と南東(現在の栃の木病院方面)に向かう堀とが水路の立体交差をしており、「縁の下堀」という珍しいものだった。
  なお、昭和24年頃、大平町牛久の青年たちが数人、年配の人に引率されて、御手洗沼付近に見学に来たのを覚えている。

2 一兵渕付近

  (吉根沼から北上して、天神渕に至る川筋に細長い一兵渕がある)
   一兵渕では、「割り上げ」という手法で、水圧を上げ、田に水を引いていた。
  一部では、割り上げではなく、水を送るための足踏み水車もあった。
  一兵渕付近には、ニワトリのえさになる「たしゅろもく」という水草が密生していた。昭和30年ごろは、渇水期の冬場には、リアカー2台分くらいのザリガニが取れた。また、付近では、9月下旬になると、水を止めて、大麦を植えた。吉根沼から一兵渕付近は、夏場、水遊びをする近在のがき連中の格好の遊び場だった。縄張り争いも激しく、遠征してくる大町の子どもたちと地元の子どもたちが石合戦なんかをして争った。大町のがき大将は、巨漢で強かったので、遠くにその姿を発見すると地元の子どもたちも避けて、別の所で遊んでいた。昭和10年頃の風景である。

3 天神渕~笹渕~大渕付近

  吹上小学校東に位置する天神渕からは、南に三本の堀が延びていた。
  昔の館跡と思われる館があり、今でも「館」という屋号のある家の西側を南下する「館堀」、一兵渕から吉根沼へ続く「中堀」、そして、渕から南東方面に伸びる「長瀞」。瀞は、よどみの意だが、長瀞も実にゆっくりした流れだった。
  天神渕の深いところは、渕の北側で、南側は、おとなのヒザくらいの所もあり、小さい子でも水浴びができた。
 また、耕運機のなかった頃、家族同然の農耕馬を渕へ連れてきて、水浴びをさせるのも夏の風物詩だった。
  この風景も戦後、馬の伝染病と耕運機の登場を機に、あっという間に消えてしまった。
  北側の渕は、水深4~5mはあっただろう。渕の東側に柳の木が今でも見えるが、あの木の下あたりに危険な箇所があって、10歳くらいの子が、おぼれて亡くなったことがある。
 渕の周囲は、田んぼになっていて、水浴びに飽き、体が冷えると、その田に入り込み、どろんこを互いの体になすりつけ、「どじんあそび」に興じた。あぜを壊して、おとなたちによくしかられた。
 天神渕から北の笹渕へ行く途中、東に位置する川原田浄水場は、土地が低く、麦も発芽しない土壌で、昭和50年に市民の水道確保のために作られたものだが、地下深く50mから水を吸い上げている。 ちょうどその頃、巴波川水源の各渕の水が完全に干上がったこともあり、因果関係を取りざたされたが、浄水場ができる前、昭和35年頃には渕の水はすでに夏場の大雨の時期を除いては干上がっており、影響はなかったと思う。
 渕の水が干上がった原因は、周辺住民の増加に伴う生活用水の需要が増えたことと、アスファルトの舗装道路整備などにより、土地の保水力が落ちたことによるものと考えている。
 笹渕の鯉は、よく育ち、ダルマ鯉とも呼ばれるほど鯛みたいに太い姿であった。そういう鯉を見慣れていた地元の人は、後年下流の赤麻遊水地の細身の鯉を見て、驚いたという逸話も残っている。 大渕は、その名のとおり広い沼のような渕で、大渕沼とも呼ばれていた。
際の家の土台が高いのを見てもわかるように、水を満々とたたえ、見事なものだった。
 この渕で、養魚を試みた人もいた。 他の渕と同じように、昭和35年頃渕の水は干上がり、空掘りのような今の姿になってしまった。・・・・
 巴波川水源にまつわる昔がたりは、以上のとおりですが、「豆腐が腫れ物に効く」というご利益の言い伝えがあり、祭りには何百丁という豆腐が奉納された三日月神社の話や、現在の川原田総合運動公園内のプール付近で決壊し町中を洪水で水浸しにした赤津川の話など、枯渇した巴波川水源に代わって身を乗り出すような興味のある川原田の逸話が、次々と湧いてくる現地講座でした。